ヘルパーさん達のこと その①
12年前、介護認定を初めて受けた頃、私は介護も看護もど素人でした。だんだん歩けなくなる母に叱咤激励するような娘でした。実家をそのままに、仮の家を近くに借りて何かあれば走って行ける、そんな通いの介護を始めていました。
一度、母が風呂場から立ち上がれないとの父からの電話で車を走らせても実家まで約1時間。着いてみると必死で母をベッドまで運び終わった父が、間に合わなかった娘に怒りの形相でウィスキーをあおっていました。必死で走ってきたのに、救急車も呼ばないで娘だけを何度も呼びつけるなんて、どう考えてもおかしい。そんなに怒るのならもう二度と来ないから!フェンスの鍵を庭に投げつけて帰ってきました。
翌日、大阪の難波の病院へ受診の日だった母は、神戸まで出てきたとき、意識を失って倒れました。インフルエンザでした。そのまま入院となり、父は着替えを持ってくるようにと私に電話をしてきました。仕事を休み、実家へ着替えを取りに帰り、難波へ向かいました。
近くに暮らすようになっても父から電話があるときは、恐ろしく悲しかった思いがあります。
「今度は何なの?」
行ってみるとトイレへ自分で行くのだと畳を這うように動く母の姿であったり、お風呂場の中側の扉近くで倒れてしまった母を助け出せない状態だったり。
歩き出すと止まらなくて、転んでけがをする母。それを支える父はまだまだ172センチのがっしりとしてはいるものの足や腕に力が入らない。そんな自分の老いへの苛立ち。それをストレートにぶつけられるのが、娘でしかなかったのでしょう。頭では判っていましたが、辛すぎました。父の前では笑えない娘になっていました。
だからこそ、上を向いて歩きました。他ではいっぱい笑っていました。
「介護で歯をくいしばるから、歯周病になるんだと思う」と歯科衛生士さんに云われるのですが、介護でくいしばるのは歯ではなくて、くいしばっているのは心だと思うのです。
自分が頑張らないと、もっと頑張れるはず、そんな日々を過ごしていました。
そのヘルパーさんとは、両親が特養に入所した後も自費でお願いして、外出のお供をしてくれるほどに続いていました。契約をして、金銭のやり取りはあるけれど、疑似家族のように寄り添ってくれていました。
難しい父も彼女にだけは心を赦し、彼女もまた介護士のプロとして、父のような難しい人に寄り添えることが出来たらスキルアップになると果敢に取り組んでくれていたようでした。
でも、それは「自分が後悔しないため」と言っていました。
もし、自分が駆けつけないことで何か良くないことが起きたら後悔するからと。
母と私、この二人をこのままにしていたらどうなってしまうんだろうと思ったそうです。
プライドの高さから弱みを見せたくない父。自分の老いから出来ないことが増え、いつも眉間にシワを寄せている。それは周囲を不愉快にもさせ、また苦しそうな表情にも見えました。何がきっかけで怒り出すのかわからない。そのスイッチは何?当時のケアマネ、ヘルパーさんは、父の怒りを抑えるためにすぐに駆けつけてくれていました。
どんなに心強かったことでしょう。
認知症、アルツハイマー型。そう判断した精神科のドクターは、何をするでもなく、「ケアマネはいるんですね?じゃあ、そっちに相談して」とそれだけでした。
運転しても道を間違えるようになった父に、もう運転もさせられないとそれを阻止するのに警察を呼んだこともあります。まだ、認知症で事故が多発するニュースは少なかった時代でした。(わずか10年ほど前ですが)「親子の対話不足やな」そんなセリフを吐いて警察官は帰っていきました。私は、台所の包丁をつかみそうになりました。
そのヘルパーさんは、私より10近く年下でしょうか。「これからの自分の人生の方が長いのに、どうするんですか!」夜、9時ぐらいになっていました。そのときも彼女はそばにいてくれたのです。
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